介護事業を創業したかった三つの思い

失敗続きの介護事業、時々なぜこの仕事をしたかったのか?と考えることがある。創業当時こんな思いでやる!と決意をしたことを綴ってみます。

一つ目  母ちゃんとおばあへの償い


私が中学2、3年生で母ちゃんが53歳の頃 母ちゃんの脊髄に良性腫瘍があり摘出手術を受けることになりました。摘出後は、胸から下は自力で動かすことができなくなりましたが、両腕は力はないが何とか動けていました。その頃から母ちゃんは、生活のすべてを人の手を借りないと生きて行けなくなってしまいました。

■ 地獄のような日々

父はお金の苦しさから、毎日のようにお酒を飲み、暴言や暴力が激しくなっていきました。
ある日、寝たきりの母と口論になり、身動きの取れない母を激しく殴りました。歯は数本折れ、顔は腫れ上がり、鬱血していたのを覚えています。

そのときの恐怖のせいか、場面の記憶はあいまいです。
ただ、近くで耳を塞ぎながら、母が「殺せ(くるせ~)、殺せ(くるせ~)」と叫んでいた声だけは、今も耳に残っています。

その後、姉の高校卒業を機に、家族全員で田舎に戻って暮らすことになりました。
けれど、毎晩酒に酔って暴れる父、寝たきりの母。そんな家での生活は、私にとって地獄のようでした。

■ 大学進学という逃げ道

「家を出たい」「逃げたい」――。
そう思った私は大学進学を希望し、公務員として働いていた姉に相談しました。
最初は賛成してくれて、学費も出すと言ってくれましたが、しばらくすると「甘い」と言われ、
「母ちゃんの介護をしなさい」と強く言われました。

夢を否定されたようで、本当に悔しかった。
それ以上に、「母ちゃんの下の世話だけは絶対にしたくない」と思い、どうにか逃げる方法ばかり考えていました。

そんなとき、友人から「仕事をしながら通える福祉系の短大がある」と教えてもらいました。
すぐに家族には内緒で受験。意外にもすんなり合格し、学費も勤務先がすべて負担してくれることになりました。

家族には反対されましたが、なぜか父だけは喜んでくれて、私を褒めてくれました。
でも、そんなことはどうでもよく、何よりも“母ちゃんの介護をしなくていい”ことが、本当にうれしかったのです。

私は、自分のことばかり考えて、家族のことを顧みようとしませんでした。
でも、進学もできてしまったことで、「許されてしまった」のだと思います。

■ 結婚という強硬手段

短大で3年が過ぎ、卒業を間近に控えた頃、またあの問題――「母ちゃんの介護」が出てきました。
「もう好きなことをしたんだから、今度は母ちゃんの面倒を見なさい」と、姉から何度も言われました。
でも、私はどうしても母ちゃんの世話がしたくなかった。

そして私は、とんでもない方法でそこから逃げてしまいました。

当時付き合っていた人と、勢いで結婚することを決意し、電話で家族に報告しました。
19歳でした。もちろん、家族は全員猛反対。ただひとり、おばあだけが賛成してくれました。
誰の言うことも聞かず、私は勝手に婚姻届を出して結婚しました。

こうして、母ちゃんの介護から完全に逃げることができたのです。

■ 介護から逃げた私が「介護」を仕事に

結婚後は子宝に恵まれず、4度の流産を経験。
5回目の妊娠が分かったときには、すでに夫婦関係は破綻しており、私はひとりで子どもを育てることになりました。

肩書だけでなく、実際に自分の手で子どもを育てるようになって、ようやく母ちゃんの気持ちが少し分かるようになりました。
まして、私が選んだ仕事は「介護」。人様のお世話をする中で、母ちゃんに対する自分の態度や考え方に気づかされ、
申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

「これから親孝行したい」――そう思ったときには、父も母も、そしておばあも、もういませんでした。

■ 後悔から恩返しへ

この後悔を、どうやって償えばいいのか。
深く考えたとき、「家族のような人たちの介護をすること」で、母ちゃんへの恩返しができるのではないかと思いました。
おばあへの感謝も込めて、私は介護事業を立ち上げる決意をしたのです。

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